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2006年10月

2006年10月28日 (土)

新庄選手の引退に寄せて

日本ハムファイターズの新庄選手が現役を引退しました。本人曰く「漫画みたい」な「日本シリーズで優勝が決まった試合が引退試合」という劇的なストーリーでした。普段特に野球ファンというわけではない僕も、この日はテレビに釘付けになってしまいました。

プロ野球に限らず、スポーツというのは基本的に勝負の世界で、勝ったチーム、成績の良かった選手が全てを手にし、負けたチーム、成績のふるわなかった選手は何も得られない、あるいは全てを失ってしまう世界です。これって今の世の中の縮図ですよね。ビジネスの世界も、常に競争、勝ち負けの世界です。あるいは一見競争とはもっとも縁遠いと思われるアートの世界、たとえば僕が長く関わってきた音楽の世界でも「売れれば勝ち、売れなければ負け」という厳然とした価値観に支配されていました。あるいは「○○コンクール」のように誰が優勝、誰が二位…という風に順位、優劣をつけたがる。…これってビョーキだと思いません?今の世界はあまりにも「勝ち負け」あるいは「優劣」という強迫観念に支配され過ぎているのではないでしょうか?

スポーツの世界は中でもそれがもっともはっきりと数字、記録という形で現れます。強いものはもてはやされますが、弱いものは無視され、忘れ去られます。しかし、考えてみてください。勝負に勝つということは、その相手は必ず負けると言うことです。勝利の栄光の陰には必ず敗北の失意があります。つまり「誰かが負けてくれるから、勝利者になれる」わけです。もっと露骨に言えば「勝利者は常に敗北者を踏みにじることによって栄光を勝ち取る」のです。つまり「全ての人を幸福にする勝利者」というのは論理的に存在し得ないのです。勝利の陰には必ず敗北者の涙、失意、あるいは思うような成績を残せずに、人知れず消えていった無数の選手たちの悔し涙があるのです。そうした人たちがいるからこそ、一握りの人たちの「栄光」が存在できるのです。ただ、私たちは通常敗者に注目しないので、そのことをあまり意識しないだけで、実際にはこうした勝負の世界では、一握りの「勝利者の幸福」は無数の「敗者の不幸」の上に成り立ってると言えます。しかも、今日は勝利者になれたとしても、あすはどうなるか分からないので、勝利の美酒に酔っていられるのはほんの一時のことです。例外的に現役時代の大半を勝利の栄光に包まれて過ごした選手がいたとしても、いつかは体力が衰え、後輩に追い越され、引退する時がやってきます。ずっと勝ち続け、ずっと栄光に輝き続けた選手はどこにもいないのです。

ところが、新庄選手はこの勝つか負けるかが全てを決めると言ってもいいプロスポーツの世界で、異色の存在でした。新庄選手は知名度の割にはこれといった記録を残していません。打率はいつも2割台の半ばで、平凡と言ってもいい記録です。首位打者や本塁打王などの個人タイトルを獲得した事は一度も無いそうです。

しかし彼は誰よりも「記憶に残る」タイプの選手でした。おなじみの奇抜なパフォーマンスも、一歩間違えば批判の対象になりかねないですが、彼がやるぶんには許せたという部分が大きかったと思います。派手な雰囲気を振りまく一方で周囲に対する気遣いも人一倍強く、パフォーマンスを行う際には、必ず事前に相手チームや監督・コーチ・先輩選手などに了解を得るなど周到な根回しを行っていたそうです。チームメイトからは「新庄ほど気配りをする選手はいない」と言われるほどで、その人柄のよさも人気を支える一因であったといわれています。ただの自己中心的な目立ちたがり屋ではなかったのですね。

おそらく彼の頭にあったのは「自分の周囲の人間をハッピーにすること」だったのではないでしょうか。負けがこめば沈滞しがちなチームメイトのムードを一新するために。そしてなにより自分たちの野球を見に来てくれるファンのために。だから彼のパフォーマンスは嫌みがないのでしょう。そのおかげで3年前まで野球チームがなかった北海道では、すごく野球が盛り上がり、ファンが増えたそうです。地元密着型の野球チームを標榜して札幌に移転したファイターズは、3年で大成功を収めました。新庄選手はその中でも中心的な役割を果たしたのです。

成績という意味では、必ずしも一流とは言えなかった新庄選手。先の日本シリーズでも、突出して活躍したというわけではありません。ですが、明らかに誰よりも注目を浴びたスターでした。日ハムの誰かがホームランを打てば、その選手と同じぐらい新庄のリアクションをカメラが追う。こんなことはスポーツの世界ではまずありません。そして8回裏の現役最後の打席。バッターボックスにはいる前から新庄選手は涙が止まらなくなっていました。おそらく、ろくにボールが見えていなかったと思います。結果は涙のフルスイングで、三球三振。にもかかわらず、球場は大歓声のスタンディング・オベーションでした。…こんな野球選手が、かつていたでしょうか?少なくとも僕には記憶がありません。ある意味、もっとも新庄選手らしい最後の打席だったと言えるかもしれません。大記録など一つもないにもかかわらず、これほど皆に愛された新庄選手。それはその分だけ多くの人をハッピーにしてきたからに他ならないでしょう。前述のように、大記録を作る名選手の影には無数の「敗北の涙」があります。ですが新庄選手はある意味「自分に関わる全ての人を幸福にしてきた」と言えるのではないでしょうか。その意味では、彼はどんな名選手もなしえない金字塔を打ち立てたと言えるかもしれません。最後の打席では対戦相手の中日の谷繁捕手が「お前泣くなよ、全部ストレート投げさせるから」と声をかけたそうです。対戦相手に、しかもほぼ勝負は見えていたとはいえ、日本シリーズ優勝をかけた大事な試合でこんなことを言わせてしまう…新庄選手の人柄を伺わせるエピソードですね。

長くなってしまいましたが、何を言いたいかというと「もう少し勝ち負け以外の大切なことに目を向けようよ」ということです。もちろん新庄選手だって試合中は一生懸命勝つためにプレーしたでしょう。ただ彼には+αの「何か」があった。おそらくそれは「多くの人をハッピーにしたい」という思いだったでしょう。もし人類の大半が同じように勝ち負け、自分が他の誰かよりも優位に立つこと、他人よりも出世すること、よりお金持ちになること…そういうことよりも「全ての人が幸福になること」に心を砕いて生きていったとしたら…おそらく戦争もいじめもない、今よりもずっとすばらしい世界になるんじゃないでしょうか。

SMAPではありませんが、「ナンバーワンよりオンリーワン」、その方がかっこいいし、幸福になれる。勝ち負けの闘争だけの世界に安らぎも幸福もない…僕にはそう思えるのです。

2006年10月21日 (土)

とりぱん

3375941 最近お気に入りの漫画の紹介です。講談社「モーニング」誌連載の「とりぱん」。(単行本1〜2巻も発売中)盛岡に住む作者の日常生活を基本的には四コマギャグ漫画形式で描いています。初期においては主に実家の庭に飛来する野鳥たちの様子をデフォルメして描いていたが、話数が進むにつれ、鳥以外の様々な動物も登場。また、季節に応じた作者周辺でのエピソードも描かれています。本作品のタイトルは、庭に来る野鳥のエサとしてパンが用いられていることから名付けられたそうです。

基本的には四コマギャグなんだけど、それにとらわれない自由な作風が魅力。なんというかな〜、自然を題材とした随想漫画とでも言うか…芭蕉の俳句を漫画にしたような感じというか。大げさに言えば新たな漫画のジャンルを開拓したと言えるかもしれません。

と言っても、作者とりのなん子氏は、バリバリのバードウォッチャー、ナチュラリストというわけではなく、あくまで日常生活の中で接する自然を肩肘張らずに表現しています。だからそういうのが目的で読むと肩すかしを食うかも。自然そのものをリアルに描写するのではなく、とりの氏の感性のフィルターを通した「世界観」を楽しむ作品なのですね。「幸福」っていうのは、意外と身近にたくさん転がってる。それを感じ取る人の心、感性が開かれてさえいれば…。そんなことを再認識させてくれる、すてきな作品です。僕も仕事の条件が許せば、もっと郊外に住んでこんな生活がしてみたいですねえ…。

2006年10月18日 (水)

いじめの構造

抗議・中傷のメール・電話殺到 中2自殺の筑前町(朝日新聞)

こうなるとは思いましたが、ものすごいバッシングが起こってるようですね。だけど、ちょっと考えてみて欲しいのは、この抗議電話をかけたり中傷メールをおくる人たちが何を意図してるか、どんな意識でやってるかです。

もし抗議や中傷をすること自体が楽しくて「胸がすっとする」ようなら、その人はかなり危ないと思います。要するに人を攻撃すること、弱いものを叩くこと自体が目的なわけですから、意識レベルとしては自殺した生徒に「偽善者」と言った先生や、それに便乗していじめをやったクラスメートと同レベルです。今はこの先生や学校が「いじめられる側」「叩かれる側」になっているので、それに便乗して「いじめている」だけですね。「今ならこいつらを叩いても自分は正義の側に立っていられる、自分は非難されない、今だ!」ってわけですね。「いじめの構造」としては生徒を自殺に追いやったことと全く同じことを、抗議や中傷をする人もやっているわけです。こんなことをしても何の解決にもならないどころか、いじめの連鎖を生むだけです。いじめをやった当事者をさらにいじめても、問題の根本は何も解決しません。

問題はこうした心理はどこから来るのか、ということじゃないでしょうか。何故こういう人たちは「自分より弱いものを見つけると攻撃したがる、攻撃すると快感を覚える」のでしょうか?ここがいじめ問題の核心だと僕は思いますが、皆さんはどう思いますか?

2006年10月17日 (火)

福岡いじめ自殺

昨日さんざん報道されましたが、福岡でのいじめ自殺事件、本当にひどい、痛ましい事件ですよね。中日新聞の記事によると…

 校長によると、教諭は男子生徒が1年生の1学期ごろ、教室内で床に落ちた級友の消しゴムを拾ってあげた際、「君は偽善者にもなれない偽善者だ」と言った。クラス内では、しばらく「偽善者」が生徒間のはやり言葉になった。

 男子生徒はその後、同級生からいじめ行為を受けるようになったとみられ、今月11日、「いじめられて、もういきていけない」などと書いた4つの遺書を残し、自宅倉庫で首つり自殺した。

 自殺当日も、校内で男子生徒が「死にたい」と漏らすと、同級生7人に「本気なら下腹部を見せろ」と言われ、トイレでズボンを無理やり脱がされるいじめに遭ったことが分かっている。

 担任だった教諭は、授業中に思い付く漢字1文字を書く問題を出した時には、別の女子生徒に「おまえは太っているから(書くべき字は)『豚』だね」と暴言を吐いたこともあった。

 ■心理カウンセラーの内田良子さんの話 表に出ることは少ないが、教員がいじめに加担しているケースはよくある。今回の「からかいやすかった」という担 任の意識は、子どもにいじめのお墨付きを与えたと言ってもいい。子どもがストレスをぶつけるいじめ関係と、教員からもいじめを受ける二重構造になってお り、学校におけるいじめ構造を実にクリアに見せつけられた感じだ。

…ということです。これはもう地獄ですよね。ではこの学校だけが特殊なひどい事例だったのかというと、僕はそうは思いません。今の学校教育はどこもこんなもんなんじゃないでしょうか?ただ問題が表面化しているかいないかの違いで…。だから僕はこの事件のことを聞いても驚きはしませんでした。子供たちがかわいそうだとは思いましたが、起こるべくして起きた事件だと思います。過去にも似たような事件はありますし、残念ですが社会全体の根本的な意識改革がされない限り、これからも同じような事件は起こり続けるでしょうね。

以前も書きましたが、僕は今の学校教育は根本的に狂っていると思っています。もし子供がいたら、一般の小学校、中学校、高校には行かせたくありません。子供たちを毎日地獄に送り出しているのと一緒ですから。子供たちを守るには、必要な知識は何か代替の手段で身につけさせることを考え、極力学校には行かせないのが最善の手段ではないかと思います。学校教育は完全に魔の手に落ちていると言っても過言ではないでしょう。子供たちを魔界の波動に落とし、地獄の亡者予備軍を大量生産する…これが今の学校教育の実態ではないでしょうか。

それでも親の立場としては「そうは言っても今の社会は学歴で勝ち組、負け組が決まってしまうじゃないか。自分の子供を負け組にさせないためには頑張って少しでもいい学校に行かせてやるしかないじゃないか」と思うかもしれません。でもこの考え方自体が地獄的だと思います。幸福か不幸かは心の状態の問題であり、物質的な豊かさ、社会的地位、名誉…こうしたものとは関係がありません。そうしたものがないと「負け組」で幸福になれない、と考えること自体が地獄的な発想だと思います。まあ、日本全体がそういう狂った考え方にとりつかれていますから、無理もないのですが…。

こうしたことは僕が中学生だった30年前から本質的には変わっていないですね。いじめこそ受けたことはありませんが、僕が中学生だったころも同じような素地はあったと思います。今の時代、あらゆる分野で隠されていた物事の本質が、一気に露呈されつつあるのではないでしょうか。

2006年10月12日 (木)

金正日は救えるか?

昨日の続きになりますが、「情けは人のためならず」ということわざがありますよね。考えてみると、これは実に深い言葉です。「人に情けをかけるのは、本当は相手のためになるのではない。情けをかけた本人にとってこそ大きな恩恵をもたらすのだ」と言うような意味です。(時々「人に情けをかけるのは、その人を甘やかすことになるので、本当の意味でその人のためにならない」という意味だと思ってる人がいますが、大きな勘違いです(笑)。)

これこそまさに「赦し」の効能を正確に表現したものだと言えるのではないでしょうか。つまり「赦された相手」よりも「赦した本人」の人生をすばらしいものに変える力が「赦し」にはあると言うことですね。

つまり拉致被害者の家族が金正日を心の中で赦したとしても、それによって救われるのは「赦した拉致被害者の家族」であって、「赦された金正日」ではないのですね。それどころか、一歩間違えば赦された結果ますます増長し、北朝鮮がますます暴走してしまう可能性もあります。そんなことになってはますます世界に害悪をまき散らしてしまうし、金正日の心はいよいよ奈落の底(無間地獄)に落ちていってしまうでしょう。そこが現実の政治の難しいところで、ただ北朝鮮の横暴を見逃がせばいい、放置しておけばいいと言うわけにはいかず、そこは知恵を使って対処する必要があるでしょう。

では、金正日を救う方法、どこまでも地獄の底に落ちていこうとする彼の魂を救ってやる方法というのはないんでしょうか?先日は「ゴルゴ13に頼んで…」などと冗談半分で書きましたが、金正日自身が改心して彼の魂が救われれば、それに越したことはないでしょう。でも…多分ないんでしょうね、そんな方法は。彼自身が自分で気がついて心を変えない限り、第三者が彼の心を救うことは出来ないんだと思います。

逆に言うと、「赦し」には「赦された相手」よりも「赦した本人」の人生をすばらしいものに変える力があるというのは、自分で自分の意識をシフトさせたからこそ、その人の人生は変わった、と言うことでしょう。例えお釈迦様でもキリストでも、他人の心の中に入って、その人の意志を無視して心の方向性を変えることは出来ないんだと思います。それが心の世界の動かしがたい法則なのでしょう。

2006年10月10日 (火)

行くも地獄、戻るも地獄

このところ仕事が忙しく、余裕がないせいか、心身ともに調子は今ひとつ…。今日はブログで毒吐かせてもらうか(^^;)。

北朝鮮の核実験がついに行われてしまいました。これまでは必ずしも足並みがそろっていたとは言い難い各国の対北朝鮮政策ですが、今回ばかりは一斉に非難の声明が出されています。もっとも北に対して親和的と思われる中国までもが「断固反対する」と言っていますね。日本政府も早速追加経済制裁の検討に入ったそうです。いったいこの先どうなるのでしょう?金正日はパンドラの箱を開けてしまったのでしょうか?

このままで行くと、各国の北朝鮮へのしめつけは一気に加速しそうです。拉致被害者の家族の皆さんなどは「自業自得。むしろもっと早く厳しい措置を行うべきだった」と思うかもしれません。ですが、経済制裁などで苦しむのは北朝鮮の罪のない一般国民です。ただでさえ飢饉や天災などで、北朝鮮では数万人単位の餓死者が出ていると聞きます。この上経済制裁などのしめつけが強化されれば、数十万単位の死者が出る可能性もあるでしょう。

確かに北朝鮮はろくな国じゃないし、金正日はどうしようもない指導者かもしれない。しかし、我々に北朝鮮の国民に対して「あなたの国の為政者が悪いのだから、あなた方は死んでくれ」という権利があるでしょうか?たとえ自分の子供を拉致誘拐された被害者の親だとしても、そこまで言う権利があるでしょうか?言うまでもなく、拉致被害者は数万人もいません。ですが経済制裁によって死ぬ北朝鮮の国民は、それを上回る数になる可能性もあるのです。また安倍政権はこの「北の脅威」を口実に日本を一気に憲法改正、軍国化へと導こうとするかもしれない。僕は小泉総理も嫌いでしたが、安倍総理はさらに輪をかけて嫌いですね。

もちろんだからと言って、金正日政権をどこまでも暴走させていい、それを放置していいということにはなりません。何とかしてこれを止めなければならない。でなければまたもや戦争、最悪日本に核ミサイルが飛んでくるという事態にならないとも限らない。…まさに、行くも地獄、戻るも地獄。どっちにしてもろくな結果にはなりそうもありません。いったい我々はどうしたらいいのでしょう?

僕がない知恵絞って考えた最善のシナリオは、ゴルゴ13のような天才スナイパーに依頼して金正日を暗殺してもらい、北朝鮮の政権を内部崩壊させることかな。それが犠牲をもっとも少なくする、最善の方策じゃないかって気がする…いや、マジで(^^;)。それにしてもこの惑星ではいつになったらこんな「地獄ゲーム」が終わるんでしょうか?いつになったらみんなが穏やかに、幸せに暮らせる世界が実現するのでしょうか?

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