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2006年8月

2006年8月31日 (木)

資源は地球からのかりものです

livedoor newsのPJオピニオンというコーナーに面白い記事を見かけました。

資源は地球からのかりものです

よくよく考えてみれば当たり前のことです。空気も、水も、太陽の光も、動植物も、その他の環境も…どれもこれも人間は自然から無料で与えられています。もともと無料で使える「みんなのもの」のはずですよね。必要以上に無駄遣いしない、余れば返す(足りない人に分け与える)のが当然。ライオンだっておなかが一杯の時は決して獲物を捕ろうとはしません。自分が生きて行くのに必要なぶん以上の物質を所有したいと思うのは、自然の摂理から言えば病的な強迫観念と言っても過言ではありません。「お金のいらない国」のような理念は、何も突拍子もないものではなく、こういう自然界の摂理をそのまま人間社会に持って来たものだと言えるでしょう。

ところが、それらのものを加工したり、たまたま自分が発見したというだけで誰かに「所有権」が発生します。もともと全てを無料で与えられているのに「所有」というバーチャルなルールをでっち上げ、より多くを所有した者が勝ち組、出来なかった者が負け組という「資本主義」という名のゲームを延々と繰り返しているわけです。

昔、縄文時代の日本には戦争、いくさのたぐいが全く無かったらしいと言われています。なぜかと言うとその時代の墓には武器で殺された痕跡がある遺体がほとんど無いんだとか。食物は狩猟採集文化で、取って来たものはみんなで平等に分配するのが当たり前だった。それが弥生時代になると、農耕が行われるようになります。何故農耕が発達したかと言うと、狩猟採集だけではいつも安定して食べ物が得られるとは限らない、だから食べ物が減っても飢え死にしないために、もっと効率の良い食べ物の供給方法を考えた、ということでしょう。するとその次には収穫した食物を「蓄積する」という文化が生まれ、より多く蓄積する者、少ししか蓄積出来ない者と言う「貧富の差」が生まれる。そしてそれらを奪い合って「争いごと」「戦争」が発明される。従って弥生時代以降の墓には明らかに「殺された遺体」が増えるそうです。

現在でも狩猟採集だけで生活している先住民は「所有」も「貨幣」も存在しない文化を持ってると聞きます。「農耕」が発明されて食料事情は良くなったんだろうけど、精神的な意味では人間は退化したんでしょうね…。僕が好きな本「パパラギ」の主人公で、ポリネシアの先住民の酋長ツイアビはこう言ってました。「パパラギ(白人、文明人)はヤシの木が自分の家の前に生えているだけで『このヤシは自分のものだ』という。頭がおかしいのではないか?ヤシは自然に生えたもので、神様の恵みではないか?」というツイアビの言葉が思い出されます。

…このように、この「所有」「資本主義」というバーチャルなルールは、大局的に見れば人間を不幸にしてるのは明らかだと思うんですが、まあそれでもまだ当分は続くんでしょうねえ…。「勝ち組」の連中ががっちり既得権益を維持するために頑張ってますから。

ただ、近頃ちょっと興味深いニュースがありました。マイクロソフトのビル・ゲイツ氏が段階的に退任をして、慈善事業に専念するんだとか。マイクロソフトと言えば勝ち組企業の代表、しかもパソコンOSで圧倒的なシェアを持つことを利用して、その周辺でも手段を選ばない市場の独占を目指して来た、いわば資本主義のえげつなさを最も体現した企業でもあります。そのトップであり、長年世界の長者番付の1位を続けていたゲイツ氏が引退するというのは、一体どういう心境の変化なんでしょうか?事情はよく知らないんですが、本音を述べたインタビュー記事でも出たら是非読んでみたいですね。おそらく常に競争に駆り立てられ続けた彼の人生は、ものすごく苦しかったんじゃないかと思います。ある種、かわいそうな人です。さすがにもう50歳を迎えて、こんな人生がこれから先もずっと続くなんて、ほとほと嫌になったのかもしれません。ゲイツ氏の本音は分かりませんけど、何か一つの時代が終わったような、時代が変わって行く象徴的な出来事のような気もしますね。近い将来、長者番付にのるような金持ちであること、シェアを独占すること、とんでもない利益を上げること…こうしたことは人間として恥ずかしいことなんだということが常識になる時代が来るんじゃないでしょうか?…来て欲しいんですけど(笑)。

2006年8月30日 (水)

真の幸福とは?

本当の幸福とは何でしょうか?高度経済成長時代から1980年代のバブル経済絶頂の頃までは、我が国では「物質的に豊かになること=幸福」という価値観が一般的コンセンサスとして存在していたようですが、現在では多くの人がこの価値観に疑問を感じるようになって来たのではないでしょうか?

しかしそれでもまだ、それに付随する価値観、例えば社会的に成功したいとか、才能が欲しいとか、美貌があれば、素晴らしい結婚相手が現れれば…それとも世界で一番愛してるあの人が自分のものになれば、とか…そういうこの物質世界における何らかの「他の人より優れたもの」や「憧れ、夢の対象」が手に入れば自分は幸せになれる、と信じている人は多いのではないかと思います。中には未だに即物的に「世界一の金持ちになることが最高の幸せ」と信じて生きて来たホリエモンのような人もいます。(もろくも崩壊しましたけどね。)これらの考え方の共通点は、一言で言えば「夢を実現すれば自分は幸せになれる」ということです。

ですが僕は今ははっきりと思います。こうしたものをいくら手に入れても、どれだけ夢を実現しても、人間は幸せにはなれない、と。そんな馬鹿な、と思うかもしれません。それじゃあ人間は何のために日々頑張って生きているんだ?…って。でもよく考えてみてください。はたから見てうらやましいとしか言いようがないほど恵まれた人生を生きているのに、本人は不幸という実例はいくらでもあります。例えばダイアナ妃。あれだけの美貌を持ち、王位継承者と結婚したんです。「素晴らしい結婚相手が現れれば、玉の輿に乗れれば自分は幸福になれる」と思ってる女性の皆さんからみれば、まさに世界最高の「成功者」でしょう。ところがその後の彼女の人生は、およそ幸福とは言えないものであったことはご存知の通りです。別の例では米国の歌手のマライア・キャリー。7オクターブの声域を持つと言われ、ポップスの分野であれほどの歌唱力を持つ人は世界中探してもほとんどいないでしょう。商業的にも世界のポップス界の頂点に立ったと言えるほどの成功を手にしています。ですが、彼女は自殺未遂をしていますよね。それだけの成功を手中にしても、彼女は不幸だったんです。

かくいう僕もそのことを身をもって体験して来ました。僕のブログを現在のタイトルになる前から知っている人ならご存知の通り、僕は長いこと音楽をやって来た人間です。10年ちょっと前にある音楽ユニットを結成し、それなりの成功体験をして来ました。(もちろんマライア・キャリーと比べればささやかなものですが(笑)。)その後色々あって昨年そのユニットは解散したのですが、今振り返ってみると、一番成功していた時を思い出してみても、自分はちっとも幸福ではありませんでした。社会的にはある程度の成功をしたとは言っても、決して余裕はありませんでした。どうしたらもっと成功出来るか?どうしたら落ち着いて自分たちが満足出来る音楽活動が出来るか…次の一手は?頭の中は常にそんなことで一杯で、一時も心が休まることはありませんでした。常に何かに追い立てられるように、余裕のない中で仕事をこなし、最後まで「これで満足」と言えるものを感じることはありませんでした。むしろ音楽活動から距離を置いている現在の方が安らぎに満ちていると言えるでしょう。

成功の絶頂体験をしている人ほど、一方ではどん底を味わっているものです。マスコミでは普通成功者が絶頂にある時にスポット・ライトをあて、その人が「どん底」の時には見向きもしません。また誰だって自分が苦しんでいるところ、格好悪いところは人に見せたくないと思うのが人情です。ですから多くの人は成功者の絶頂の時だけを見てうらやましい、自分もああなれれば、と考えがちですが、実際は「絶頂体験」が高いほど、「どん底」も深いと言えるのではないでしょうか。僕ですらそれを味わっているのですから、増してマライア・キャリーやマイケル・ジャクソン並みの成功者の苦悩はいかほどか…それが彼らを自殺未遂や奇行に追い込むことも想像に難くありません。(最近俳優のトム・クルーズも「奇行」を理由に映画会社から契約を打ち切られたそうですね。)夢を追いかけて、努力に努力を重ね、ついに人もうらやむほどの「成功」を手中にしても、その中に幸福はないのです。今の僕はそれが断言出来ます。やっと手に入れたと思った「幸福」は、いつの間にか蜃気楼のように消えてしまいます。それは幻でしかなかったのです、最初から。

では、「真の幸福」とは何でしょうか?それは「揺らぐことのない心の平安」です。私たちが住んでるこの物質世界で一見どんなに幸福そうな、あるいは不幸そうな出来事が起こったとしても、そんなことに全く影響を受けることなく、心が常に高いレベルで安定し、平安であること…これが本物の幸福です。

さて、これを読んでいるあなたにはこのことが信じられるでしょうか?信じられないという人が大半かもしれません。それはそれで結構ですが、どうか僕がここに書いたことを頭の隅に覚えておいてください。そして頑張って是非それぞれの人生の目標、夢を達成してください。「夢が実現」して、その「成功者」としての人生を十分味わった時に「ああ、あれはこういうことだったのか」ときっと分かっていただけると思います。

P.S.「揺らぐことのない心の平安」を達成した上で、社会的にも成功している人ももちろんいらっしゃいます。「成功者は皆心の中は不幸だ」と言ってるのではありません(^^;)。幸福になるために夢を追い求めるのではなく、「幸福な心の状態」になったから結果として幸福な現象があとからついて来た、気がついたら夢が実現していた…これが本来のあるべき姿だと思うのです。

2006年8月27日 (日)

鎌倉大仏

ふと思い立ち、鎌倉の大仏を見に行きました。

※写真はクリックで拡大
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写真では今イチ分かりませんが、さすがにでかいね…。見たのは中学生の時以来でしょうか?で、なんで急に見に行きたくなったかというと…

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これをじかに見て確認したかったんです。大仏様がどんな印(ムドラー)を組んでいるかを。

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さすがに気品を感じさせるお顔をしてらっしゃいますね。額にある出っ張りは百毫(びゃくごう)というツボ。

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横顔も拝見。阿弥陀如来というのはイエス・キリストのことだという説をどこかで聞いたことがあります。つまりキリスト教的な信仰を東洋に広めるため、天界に帰ったイエスが浄土宗系の僧侶を指導していたのだ、というわけです。確かに「キリストを信仰すれば天国に行ける」と説くキリスト教と、「阿弥陀様を信じて念仏を唱えれば極楽浄土に行ける」と説く浄土宗系の仏教は似ていますけど…真相はどうなんでしょうか?

 

2006年8月25日 (金)

あるヨギの自叙伝

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パラマハンサ・ヨガナンダ 著
森北出版

パラマハンサ・ヨガナンダ……数多いインドの高名なヨガ行者の中でも、特に僕が心を惹かれる人です。既に50年前にこの世を去っていますが、本書を読むとつい最近まで生きておられたかのような錯覚を覚えます。超弩級のアヴァター(解脱者)ですが、それでいて「近寄りがたい」とか「雲の上の人」というイメージがあまり無く、親しみやすさを感じさせるキャラクターの持ち主です。本書ではヨガナンダ師の生い立ちから修業時代のさまざまなエピソード、師スリ・ユクテスワとの出会い、ヨガを西洋に伝えるため、たった一人でアメリカに旅立って行くエピソードなどが飾らない文体で書き記されています。中には人間臭い失敗談などもあって、それが親しみやすいイメージにつながっているんでしょうね。

内容は全編これヨガの叡智という感じですが、特に興味深かったのはヨガナンダの師、スリ・ユクテスワが一度死んでから復活し、ヨガナンダと再会するくだり。復活と言っても霊視能力のあるヨガナンダが霊体の師と再会したんだろう…と思ったんですが、さにあらず。次のような記述があります。

そしてそこに血の通った肉体の姿のスリ・ユクテスワを見たとき、私は狂喜の波に包まれてしまった。「私の息子よ」先生は、天使のような魅惑的な微笑みをたたえながら、やさしく言われた。私は、先生に対して初めてひざまずいて挨拶をすることも忘れて、いきなり駆け寄ると、飢えたように先生をしっかりと両腕に抱き締めた。
     <中略>
「でも、これは本当に先生なのですか?あの神のライオンでいらっしゃった先生なのですか?先生が今着ておられるこの肉体は、私がプリの庭に埋葬したあの肉体と全くそっくりですが」
「そうだ、子供よ、全くそっくりだ。これは血の通った肉体だ。私の目にはエーテルのように希薄に見えるが、お前の目にはまぎれもない肉体に見えるだろう。私は、宇宙原子から全く新しい体を作ったのだ……お前の住んでいる夢の世界の、プリの夢の砂地にお前が埋葬してくれたあの私の夢の肉体と全く同じ体を…。私は本当に復活したのだ」
     <中略>
先生はおかしそうに笑われた。「ヨガナンダ、すまないがもう少し腕を緩めてくれないか」「ほんの少しだけですよ」私は、たこのようにしっかりと先生にしがみついていた。私にはほのかななつかしい先生特有の快い体臭が感じられた。

…このようにスリ・ユクテスワははっきりと「肉体を持って」復活しているのです。イエス・キリストが十字架にかかって三日後に復活したように。…どうやらこのクラスの超弩級の聖者になると、そんなことは朝飯前のようですね(笑)。この会話の中でユクテスワは「お前の住んでいる夢の世界」「プリの夢の砂地」「私の夢の肉体」…と、お前たちのいる現象界、物質界こそ「夢」なのだと強調しています。肉体を去ってから帰る「あの世」の方こそ実体なのだと。とすれば、実体のある世界から、「夢」であり「影」「幻」のようなこの世の肉体を復活させてみせることなど、彼らにとっては雑作ないことかもしれませんね。

それから僕も最近知ったのですが、ヒンドゥー教のスワミ(僧)が講話をする時に、キリスト教の聖書から話を引用することが結構多いんですよね。この本はヨガナンダがアメリカ人向けに書いたものなので、特にその部分を増やしてるのかもしれませんが、それにしても仏教のお坊さんが聖書から引用して講話をするなんてことはちょっと考えにくいです。こういうところがヒンドゥー教の懐の深さが感じられて、僕の好みですね(笑)。宗教の嫌なところは、すぐに「独善」に陥って自分が信じている先生(教祖)、自分が信奉している教えが最高で、他のものは邪教である、または劣っている…という「閉じた世界」に陥りがちなところです。最悪の場合は「だから邪教を信じるものは殺して良いのだ、その方が彼らのためだ」となり、宗教戦争やテロにつながります。(そう考えるアンタが邪教だっての(^^;)。)その点ヒンドゥー教のスワミはいいものはいいのだと認め、イエス・キリストを聖者として扱います。この辺にもヒンドゥー教のレベルの高さを感じます。相当自分に自信がなければ出来ないことでしょう。

巻末にマハサマディに入る1時間前のヨガナンダの写真が載っています。マハサマディとは、ヨギが瞑想状態のまま肉体を離れ、あの世に戻ることで、要するに自らの意志で肉体の「死」を選ぶわけですが、とても死を1時間後に控えた人間とは思えない、穏やかな微笑みをたたえています。彼にとっては肉体の死など「ちょっと向こうに行ってくる」ぐらいのものでしかないのでしょうし、本来この世に生まれる必要のないアヴァターなのですから、使命(ヨガナンダの場合は西洋にヨガの叡智を伝えること)が終わればもう肉体には何の執着もない、ということなのでしょう。

僕は正直言って今の地球のこの物質世界があまり好きではありません。絶えることのない戦争、飢餓、環境問題、弱肉強食の競争社会…物質世界は幻だと分かっていても、いささかうんざりです。…これは何かの罰ゲームか?なんで自分はこんな刑務所のような世界に閉じ込められてるんだ?…なんてね。できればさっさとマハサマディに入って解脱して、もう生まれ変わって来たくないのですが、僕のような凡夫がそこまで行くには、まだあと何百、何千回転生すれば良いやら…(^^;)。

 

2006年8月19日 (土)

分ち合いで成り立つ世界 - 3

さて、サーバー・クラッシュ&リニューアル以後の初めての投稿は、1ヶ月以上も間が空いてしまいましたが、「分ち合いで成り立つ世界」の3回目です。もう誰も覚えていないと思いますのでちょっと復習で下記を覗いてみてください…(^^;)。

分ち合いで成り立つ世界 - 1
分ち合いで成り立つ世界 - 2

2回目の最後は「結局資本主義も共産主義も人間を幸福にはしなかった」という話で終わっていました。では、長島龍人さんの「お金のいらない国」のような理想社会はどうやったら実現するのでしょう?

結論を言うと、法律とか政治・社会体制をいくら「理想的」にしてもダメだと僕は思います。前回「マルクスが資本論で描いた理想自体は美しいものだ」と書きました。理想通りに事が運べば旧ソ連などの社会主義国は「お金のいらない国」のような素晴らしい社会を実現していたかもしれません。ですが、現実にはそうはならなかった。20年ほど前、ゴルバチョフが登場してペレストロイカ政策を始めるまではソヴィエト連邦という国は今の北朝鮮以上に、不気味でコワ〜い国でした。(大韓航空機撃墜事件、覚えてます?領空侵犯を理由に、民間の旅客機をソ連軍機が撃墜してしまうという前代未聞の事件でした。)現在の北朝鮮もそうですが、こんな国で暮らす国民が幸せだとはとても思えません。「全てを平等に分かち合う」という理想は結局共産党の腐敗により、一部の特権階級が甘い汁を吸い、それ以外の一般人は「平等に貧しい」というだけのものになってしまいました。そして1990年代の初頭、旧ソ連をはじめとする共産主義国は次々と崩壊して行きました。

彼らは美しい理想を抱きながらも、その理想を実現する手段をはき違えたのだと思います。すなわち、暴力的な革命でもなんでも、理想を実現するための政治・社会体制を作ってしまい、国民を強制的にその制度に従わせれば良い、という考え方です。(スターリンは革命のために2000万〜5000万人もの人々を虐殺・粛正したと言われています。)しかし、それではダメなんです。本当に革命を起こすべきなのは人々の「意識」でしょう。

現在のほとんどの人間が考える「成功」は、文字通り物質的に豊かになることです。すなわちお金持ちになることや、社会的に成功することが現在の意識レベルの人間にとっての「成功」であり「幸福」なんですね。ですから地球上の限られた物質、富をめぐって「奪い合い」がおこるのは当然のことです。資本主義とは、その「弱肉強食の奪い合い」を前提としてルール化したものだといえるでしょう。共産主義はそれに対するアンチテーゼとして出て来たわけですが、いくら「分かち合い」のルールを作っても人間の意識レベルが低いうちは、いずれ形骸化して腐敗して行くのは目に見えています。

さらにある程度ルールに乗っ取った上での「奪い合い」ならまだいいですが、それでもどうしようもなくなると戦争という最終手段に出ることになります。今も中東情勢は、いつ第三次世界大戦につながってもおかしくない状態です。またみんながみんな自分が物質的に豊かになることしか考えず、地球全体の限界を無視しているため、様々な環境問題が吹き出しています。環境問題とは地球が人類に「お前らいい加減にせーよ!これ以上は面倒見切れん!!」と悲鳴を上げている状態です。こちらも遠くない将来、限界が来て大変なしっぺ返しが来るでしょう。…これが現在の人類の意識レベルが作り上げた世界の現状です。

では、どうすれば「お金のいらない国」のような、分ち合いで成り立つ世界は実現するのでしょうか?今の現状を考えると、ものすごい試練を通過しない限り難しいのではないかと思います。人間は逆境を経験してこそ成長するという面がありますから、ある意味ではそれも仕方ないのかもしれません。それが第三次世界大戦か、金融・資本主義の崩壊か、映画「デイ・アフター・トゥモロー」のような世界的な環境の大破綻か分かりませんが、そうした試練を経て、今までの自分たちの愚かさがほとほと嫌になり、その「絶望」を乗り越えてはじめて、新しい世界が見えてくるのではないでしょうか。

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