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2004年4月13日 (火)

「身内」と「他人」の境界線

イラク人質事件がらみでネットを検索してみると、世論は「自衛隊は残留すべき」という意見が70%以上というのは、何となく納得出来ます。マスコミの情報を除いて、個人のblogを見ているとやはり「残留すべき」の意見の方が過半数のようです。そのうちの一つは「彼ら3人が人質になったのは危険を承知で行ったのだから、自己責任。あんなのは勇気でもなんでもなく、無謀としか言いようがない。彼らを救うために税金を使うのは迷惑な話」なんて意見でした。「人の命よりも税金の方が重い」なんて極端な意見はさすがに珍しいですが、それでも「人命優先で自衛隊は撤退すべき」という意見のほうが少数派であることは確かのようです。

それにしても日本って、いつからこんな国になってしまったんでしょうか?国民の命よりも国家の理念、国益…そんなものが優先されるべきとは、私にはどう考えても納得いきません。自国民の命を軽視しておいて、「人道援助」も何もないだろうとしか思えないのですが…。そのうちに自衛隊撤退を主張していると「非国民」とか「国賊」なんて非難されたりして…(^^;)。…いつか来た道じゃないですか?これって。

そんな中、一つのblogの意見が目が止まりました。「置かれた立場によって発言が違うのは当然だ」という意見です。この人は「敢えて責任の所在を明確にするならば、それは自衛隊の撤退拒否をした政府ではなく、勧告を無視して拘束された3人にあるのは明白で、所謂『自業自得』ってヤツだ」と言いながらも、「もし彼等3人が僕の身内だったら...。何を置いても救出を最優先に願うし、自衛隊の撤退で解放されるのならば撤退を要求するだろう」とも言っています。つまり立場が変われば風見鶏的に意見も変わるのが当然、というわけですね。ある種、正直な意見だと思います。その考え方であれば、人質の命は家族以外にとっては「他人事」だから国益を優先して「自衛隊は撤退すべきではない」という意見になるのは当然、と言うことになります。

それならば、どこから先が「他人事」になるのかが問題です。自分と、自分の家族のことはもちろん「身内」のことでしょう。ならば親戚のおじさんおばさんや、いとこが人質だったら、それは「身内」のことでしょうか?もう少し縁が遠くて法事の時ぐらいしか顔をあわさない親戚だったら、それは「他人事」になるでしょうか?しょっちゅう会う親友が人質なら「他人事」ではないでしょうが、10年以上会ってない昔の友人だったら?かつて勤めていた会社の「元同僚」だったら、それは「他人事」でしょうか?面識はないけど、同じ学校出身の「同級生」が人質だったとしたら?

こんな風に考えて行くと、どこからが「身内」の問題で、どこからが「他人事」なのかは、結局個人の主観、捉え方の問題だと言うことが分ります。

私の場合は「素敵な宇宙船地球号」と言う番組に関わって、環境問題を身近に感じるようになり、この点に関する認識が変わりました。それは「すべては繋がっていて、バランスをとることによって世界は成り立ってる。一部を犠牲にして全体が繁栄すると言うことは本当はありえない」という考え方です。つまり、「身内」「他人」と言う区別は本当はないのだ、ということです。マクロな観点では、すべてが「共存共栄」する以外に我々が真に生き残る道はないのだ、と思うようになったのです。

すなわちある国を踏みにじることによって、別の国が繁栄すると言うことも本当はあり得ない。「他人」を犠牲にすることによってその他の大勢が助かる、ということもあり得ない。極論してしまえば、同じ日本人はもちろん、他の国の人であっても「犠牲にしていい命」なんてものはあり得ず、すべての命は等しく守らなければならない、と思うのです。日本人であっても、イラク人であっても、アメリカ人であっても、その他の国の人であっても。

環境問題以外では、今NHKでアニメが放送されている、故手塚治虫の作品「火の鳥」から私はそういう「生命は一つ」という考え方を学びました。「火の鳥」を初めて読んだのは中学生の頃でしたが、それまでの人生観が完全に覆されるほどの強い影響を受けましたね。

ですから、私はこれからも「人間の生命は国籍が何であれ、それ以外のすべての利益に優先して守らなければならない」と言う観点で発言し、自分に出来る行動をして行きたいと思っています。

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コメント

身内を知人と置き換えても良いと思います。
又、身内でも知人でもない、所謂「他人」ならいいのか?というと当然違うわけで...。
自分の問題として捉えることが出来るか否かの境界線でしょうか?

Sleepyさん、こんにちは。

自分の問題として捉えることが出来るか否かの境界線でしょうか?

まさにその通りだと思います。これは理屈で考えて分るというものではなく、「感じる」ものですから、文章で説明するのは難しいです。例えば、こんな風に考えてみたらどうでしょう?

手の指を見て、人差し指が自分(および日本人)、中指がアメリカ人、薬指がイラク人の誘拐犯、小指が人質だと思ってください。今薬指が小指に銃を突きつけ、「要求を受け入れなければ殺す」と人差し指に向かって言っています。で、実際に薬指が小指に向かって銃を発射したとしましょう。小指は傷つき、血を流します。

ここで肝心なのは、小指が傷ついて、他の指がそのことを「自分には関係ない、他人事」としてすませることはありえない、と言うことです。そこからばい菌が入って、傷口が腐るかもしれない。破傷風になって、全身に毒が回るかもしれない。そうなれば他の指にとって無関係ではあり得ないし、最悪は体そのものが死に、全員が共倒れになるかもしれない。問題は、それぞれの指がそのことに気づいておらず、他の指から独立して、バラバラに生きていると思い込んでいることです。実際は、同じ手のひらに繋がっている、同じ人間の体の一部なのに。

逆に人差し指が中指と相談して、薬指の居所を突き止め、皆殺しにして小指を救出したとしても、結果は同じです。

私が「すべては繋がっている」というのはこういう意味です。環境問題や手塚治虫の「火の鳥」がこのことを私に教えてくれました。あと「神との対話」という本にも強い影響を受けました。このことに気づいている人は「暴力を捨て、人命を救え」といい、気づいてない人は「国益優先」というのだと思います。

切り離しませんかねぇ?
つまり、それも自然の摂理に収まっている、とも。
拡大解釈すれば人類/地球も一つの生命体ですが、全てを守ることは不可能なので、「いのち」を守るために捨てられる判断もある、というお話ではないかと。
その判断の正しさについて述べるほど私は状況を知らないですけど_o_。ただ、少なくとも特定の人の命を救った結果、地球の命が滅びるということが起こってもそれが正しいかどうかはわかりませんね。

>私もあまり「人命優先」を主張すると、子龍の人気が落ちるかも…(^^;)?


それわ ない(。) ボソッ
子龍の音楽は そういう 理論ではなく、人の幸福を思う 金子さんや 山口さんの心が 伝わってると 思う・・・


理論・論議を尽くすのは 大事な事だし、考え方が 色々はあっても(それこそ イスラムとキリスト教は 宗教上では、相容れるはずもない) それでも 人間は お互いを認め合える生き物であるはずだと思う


国際政治の問題や、国内理論の問題は 微妙かもしれない
金子さんと σ(∂_∂)だって 政治に関する理論は(主張は)異なると思う
でも それで 「あいつとは アカン」には なるのではないのだし、金子さんたちの創る音楽を知っているからこそ、その心を認めれる


根本的に 何か一番大事なことを忘れた人々が、「生物的過ち」を 犯していないだろうか?

「税金が」と おっしゃった方がいらっしゃるとの事ですが、では 無辜の人を殺す事に 税金を使う事は 立派な行為なのだろうか・・・と おききしたいなあ と思います

人や 生命が 失われて 無関心で居られる人の心理は σ(∂_∂)には 理解できないですねえ・・・

と 理論はともかく、救いたい   戦争で闘って 犠牲になっている人も だれもかも・・・
亡くなった子供達の写真を見ると胸がふさがる

情に流される と言われようが なんであろうが・・・ それが無くなって、誰か 他人のために 動く人が いるだろうか?


ちなみに 仏教・仏説では そういう 他人のために動く生命状態を「菩薩」と呼ぶのです
 

金子さん、こんにちわ、

立場の移り変わりで意見が変ると言う話は、よくわかります。私も当初まったくのひとごととして今回のニュースを見ていました。しかし、3人のうちの一人が自分と同じ同窓会に属していることがわかったとたんに、自分にとってニュースは事件になりました。

勝手にトラックバックまでつけされていただきましたが、ちょうど私もみんながつながっていくという感覚がとても大事なのだと感じておるところでした。

→Shinさん

傷つき、腐食した指は切り離しませんかねぇ?
つまり、それも自然の摂理に収まっている、とも

御自分が切り捨てられ、見殺しにされる立場になったとしても、同じように「自然の摂理だ」と納得して死んで行けますか?理屈ではなく、そうなったら自分はどう感じるだろうか、と想像してみてください。

私が言いたかったことを一言でまとめるならば、他人の痛み、苦しみを自分のものとして「感じる能力」を多くの人が持てば、世の中の争いごとはほとんど無くなるだろうし、今回の人質事件もそもそも起こっていないだろう、ということです。理屈ではなく「感じ取ること」が重要だと思うのです。

→MA◇さん

根本的に 何か一番大事なことを忘れた人々が、「生物的過ち」を 犯していないだろうか?

それが「感じる能力」「感性」じゃないかと思うんですよ。「生物としての本能」と言ってもいいかな。論理的であること、頭がいいこと、理屈が通っていること…そればかりが大事にされて「感じること」「感性」の大切さがあまりにもおざなりにされてる…そこが今の社会の最もバランスを欠いた点ではないかと、常々私は考えていました。

→ひできさん

私も当初まったくのひとごととして今回のニュースを見ていました。しかし、
3人のうちの一人が自分と同じ同窓会に属していることがわかったとたんに、
自分にとってニュースは事件になりました。

それは貴重な経験をされましたね。
要はどこまで広い範囲を「自分の問題」としてとらえることが出来るかと言う感性の問題だと思います。これが広ければ広いほど、そういう人が多くなればなるほど、この世は天国に近づくのではないでしょうか?

のように、全てが利他主義であれば、世界はうまく回ります。
しかしそれは不可能です。

ま、それはともかくとしまして^^;、私は今回の問題のことを述べるほど情報収集をしていませんので、それについて述べる気は全くありませんです。

ただ、すべての人を救うのは不可能で、例が変だなと思っただけですー。
「立場」の話をしだすと、家畜の家族はどう思ってるんだろう、とかいろいろあるじゃないですか^^;。

ちなみに私は自分の身内であろうとなんであろうと、他人に多大な苦しみを与えたと自分が判断したら罰を甘んじて受けますよん。「苦しみ」は身体的なものだけとは限りませんです。
冷静な判断が必要です。不当なら戦うでしょう。だから、この問題に関しては不当かどうかの判断が出来ないので公の場では述べないです。

全てが利他主義であれば、世界はうまく回ります。
しかしそれは不可能です。

「他者」を自分と関係ない、切り離された存在だと考えれば、その通りでしょう。
でも、他者と思っていた人も自分と繋がった存在、「自分の一部」だとしたら?
今まで「利他」だと思っていたものが、実は「利己」だということになります。
そのことを説明するために「指の喩え話」をしたのです。
そう考えると「利他主義」は非現実的でもなんでも無くなります。

冷静な判断が必要です。

既に述べましたが、私は「冷静な判断」すなわち感情に左右されない理性的な判断に偏りすぎていることが世の中を狂わせていると考えています。「感性で判断すること」こそが重要だと思います。上記のような「利他=利己」というような概念は、頭で「冷静な判断」をしていたのでは決して理解出来ません。頭で考えて恋愛は出来ないのと同じことです。

興味深いです^^;。
皆が感性で判断することがよいのでしょうか?皆がよき感性を持つことができればそうだろうなぁ、と思います。
どうしたらいいんでしょうねぇ。
# 冷静な判断をする人は感性によって排除されちゃうんでしょうか…?といったあたりをお伺いしたい気もするんですが、時間とれないのと、取り合えずお考えについて理解できましたので、お返事できないかもしれないです_o_。

皆が感性で判断することがよいのでしょうか?皆がよき感性を持つことが
できればそうだろうなぁ、と思います。

法や正義、思想、宗教は、国や民族が変われば全く変わります。が、人間の生まれながら持っている本能的な感覚はむしろさほどのズレがないのではないでしょうか。例えば人間ならば誰しも「死にたくない」とか「殺されるのはかわいそう」という感覚はあるでしょう。むしろアメリカが言うような大上段に振りかざす「正義」の方が信用出来ないと思います。詳しくは下記を参照してください。

http://yuzuru.blogtribe.org/entryb19cd07884bf0032199526646ef823d8.html

# 冷静な判断をする人は感性によって排除されちゃうんでしょうか…?

もちろん頭を使って考えねば分らないこともあります。それが悪いというわけではなりません。感情だけが全てになってしまっても、また別の問題が出るでしょう。ですが現在の社会では論理的・分析的な考えばかりを重んじて、感性の部分は「感情に流されてはいけない」などと軽んじられる傾向があるのがおかしいと思うのです。要はバランスを取ることじゃないでしょうか。

>冷静な判断をする人は感性によって排除されちゃうんでしょうか…?

それって 感性=感情的 と言っていると思うなあ。。。

例えば 冷静な分析が「学力に基づく」と言うならば、σ(∂_∂)は それ相応に 「考える」事を 学力的にもしてきましたと言わせて頂きますが・・・

冷静=冷徹 であっては 何の意味があるのでしょうか?

感情で 判断するなど出来ない事です。
感情は 翻弄し、判断を狂うわせるものですから

だから、情勢分析も、世界情勢も、国内の政治情勢も、そして さらに 自分の身の回りで できることも すべて考えて 動いている人々を、「感情的」とは いえないと思う・・・・

(家族・身内は 感情的になっても 仕方が無いとも思う・・・彼らを どうか 周りの方々が支えてあげていただきたい と思っています)


感性は 冷静な判断を伴うものですよ・
感性豊か といわれる偉人たちの姿を見れば 愚かかどうかは すぐにわかることではありませんか・・・


根本的に 感じる力 というのは「情報分析」の能力を基として、その「価値」が、どの部分・分野に対して重視されるべきものかを理解する力  とでも 言えばいいでしょうか?

「冷静な判断」に 「命」の大事さ 不思議さ、宇宙そのものの価値 を愛する心を附加しないならば、その「判断」は 一体 何のために、誰のために 成すものなのでしょうか?

経済?権力?


σ(∂_∂)は、意見を「するためにしている」のではなく、
貴方自身が 「血の通ったものを 切り捨てる痛み」を 真に自分のものと出来た上で、その 冷静な力を「自分以外の」ものたちのために 使っていただける日がくる事を 切に願うのです>shinさん


そして
苦しむ家族の方々に向かって、心無い言葉を、名も名乗らずに ぶつけ 罵倒する方々に、
「名乗る事も出来ない行為が
 美しい、誇るべき行為ですか?」と 言いたいです

感情と混同してましたね_o_。
ども、ありがとございますぅ。

感性ってバランス感覚そのものですよねぇ。で、冷静な判断ですよねぇ。ほっとしました^^;;。

とりあえず、匿名で家族などにまで中傷する人は論外としまして、家族側の気持ちは解ってもそこで自衛隊撤退を強弁するのは筋が違う気がするし(あ、この問題は述べないつもりだったんだ^^;)、どちらの意見も抹殺されるものでも無ければ押し通されるものでもないと思うわけです。
こういうご意見もありますー。
http://bakapon.waynifty.com/kimaden/2004/04/post_30.html

世論として「自衛隊は残留すべき」という意見の方が多いのは知ってますが、これも含めて残留派の意見はどれもの「理詰め」に過ぎないですよね。「交通事故で年間10000人も死んでるのに、3人の命で今更なにを…」というのは、理屈としては筋が通ってるかもしれない。だけど、そこには血の通った人間の感情が全く無い。

こういう意見に対して私が言いたいのは、Shinさんへの最初のコメントと同じ、「自分が見殺しにされる立場になったとしたら、納得して死んで行けますか?理屈ではなく、そうなったら自分はどう思うか想像してみてください」ということですね。

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