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2012年5月11日 (金)

2012/5/10 北九州市、「北九州コドモのミライ」提出の瓦礫受け入れ問題に関する公開質問状に回答

北九州市の震災瓦礫受け入れに反対する市民グループ「北九州コドモのミライ」が4月に提出していた公開質問状に、北九州市の担当者が回答する説明会が5月10日、北九州市役所で開かれた。


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序盤は災害廃棄物調査担当課長の梶原氏が、配布された資料に沿って市のがれき受け入れ検討の経緯、考え方などが説明された。(以下資料参照)

災害廃棄物の受入検討について(1)(PDF形式:1.64MB)
災害廃棄物の受入検討について(2)(PDF形式:1.91MB)
災害廃棄物の受入検討について(3)(PDF形式:1.12MB)

引き続き同じく梶原課長より、「北九州コドモのミライ」提出の公開質問状に対する回答が順次申し渡された。全体的に、肝心な部分はあくまでも「環境省の方針」「石巻市・宮城県の要請」に基づいて進められており、そちらの判断によるのであって、北九州市はそれを受けて検討しているのだ、という立場が強調されていた。また、既にバグフィルターのメーカーが「放射性物質の除去は保証できない」と発言し、否定されているにもかかわらず、「バグフィルターは100%セシウムを除去できると想定」と回答するなど、根拠が不明な回答も見られた。

中盤以降の質疑応答では、こうした回答の不備な点を市民側が強く指摘し、白熱したやり取りが展開された。特に市側から以下の発言が出されたことは特筆すべきと思われる。

アーカイブの41分50秒あたりから、市民側の「本当に石巻市・宮城県から北九州市に要請があったのか?『石巻市は要請はしていない、北九州市側が瓦礫を引き受けさせてくれ、とわざわざお願いに行った』という情報もある」との質問に対し、「まず最初に環境大臣から『石巻の瓦礫を受け入れてくれ』という要請があった」と梶原課長が説明。それまで「瓦礫を受け入れるのは被災地の要請」ということが強調されていたが、実際は環境省が主導していたことが明らかになった。

さらに梶原課長は「宮城県側が『受け入れてもらう必要がない』といえば、我々が処理する理由はない」と明言。(44分40秒、1時間3分30秒)これにより、今後宮城県が「自分たちで処理できる」と判断すれば、北九州市が瓦礫を受け入れる理由は全くなくなることが明確になった。今後宮城県が瓦礫の処理計画を見直すことも予定されており、その結論次第では北九州市の瓦礫受け入れは白紙に戻る可能性も出てきたことになる。(環境保全課長の作花氏も、1時間22分30秒あたりから同様の内容を明言。)

その後、後半に行くにつれ、議論はさらに白熱。市民側は宮城県の瓦礫の処理計画の見直しの結論が出るまでは試験焼却をやらないで欲しいと要請するも、北九州市側は曖昧な答えを繰り返し、最後は梶原課長が半ば一方的に「確認が取れ次第、試験焼却は行います」と宣言し、納得出来ない市民が詰め寄る混乱の中、時間切れで閉会となった。市民側の追求に対して北九州市側が十分に回答していたとは言えず、市民側は引き続きの話し合いの場を求めたが、それに対しても明確は回答はなく、北九州市の瓦礫受け入れ問題は先行きの見えない状況になったと言えそうだ。

※参考
以下は4月19日のテレビ朝日「モーニングバード!」で放送されたもの。15分20秒あたりを見ると、環境省の廃棄物対策課の山本課長がインタビューに答えていて、「中(県内)で処理できないものを県外にお願いしたい、といってきたわけで、『十分できる』ということであれば、地元の意思にそって考えなおす」とはっきり言ってる……なんだこりゃ!?北九州市は「環境省の要請で」といい、環境省は「地元(被災地)の要請で」といい、地元は「自分たちで出来るだけやりたい」と言っている??いったい、400万トンもの瓦礫の広域処理って、どこから湧いて出た話なんだ??


20120419 ガレキは本当に広域処理しないといけないの? 投稿者 PMG5

2012年4月30日 (月)

2012/4/29 脱原発デモ@福岡・天神『全原発停止 原発は必要ありませんでした from 九州』

福岡でも毎月恒例となった脱原発ツイッターデモ『全原発停止 原発は必要ありませんでした from 九州』を中継しました。

東京でのツイッターデモに賛同し、九州で立ち上がった個人有志による脱原発デモ。特定の政治的スタンスに依ることなく脱原発のみを唯一のポリシーとするツイッターデモだが、九州では4回目の開催となる。今回はゴールデンウィーク中の開催だが、参加人数は120人ほどと今までとほぼ変わらなかった。しかし、デモコースの天神~大名の繁華街は、ゴールデンウィーク中とあって人出は多く、注目度は高かった。

ツイッターデモは親しみやすく、敷居が低いことが売り。今回も概ね好意的に受け止められていたようだが、参加人数を増やすことは簡単ではないようだ。主催グループ「TwitNoNukes九州」のリーダーごんぞー氏は、デモ終了後に「5月のツイッターデモはお休みします。そのかわり九電前の抗議行動をやります」と発表。運営スタッフの人手が足りず、毎月の開催はなかなか厳しい…とのことだった。

2012年4月23日 (月)

2012/04/23 環境ジャーナリスト 青木泰氏 福岡講演会 「被災地ガレキについて知っておきたいこと」

長年にわたってごみ問題についての住民運動に関わり、環境ジャーナリストとして一般紙や専門誌に執筆もしている青木泰氏の福岡講演会を中継しました。

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青木氏自身の取材のみならず、インターネットや週刊誌、更には既存マスコミまでもが、様々な視点から瓦礫の広域処理の矛盾点を指摘しており、もはや環境省が主張してきた「被災地の早期復興(3年以内)のため、広域処理がどうしても必要」という論理は完全に破綻している…青木氏はそのことを多角的に分析してみせた。例えば…

  • 宮城県は350万トンの可燃がれきを地元で処理できる、といっているのに、 環境省の説明は「宮城県からの提案でがれきの広域処理を進めてきた」という話になっていた。
  • 瓦礫処理は5000億で足りるのに1兆見積もってしまった。予算は使い切らないとならないという環境省の裏事情があるのではないか。
  • 「瓦礫の処理が遅れて被災地が困っている」とずっと言っていたのに、矛盾点を指摘され、最近になって環境省は「順調に進んでいる」と説明が変わった。
  • 仙台市は国が3年と言っていたものを3年以内の処理のめどがついた。
  • 陸前高田市長は地元に瓦礫プラントを作りたいと希望し、県に提案したら完成するのは2年後だと言われた。足を引っ張ったのは、広域処理したい環境省の思惑のためだろう。
  • 岩手県の牛の汚染の原因は、露天に干してあった稲わらに汚染が濃縮され、それを食べたこと。 がれきも露天に放置してあるのだから、当然濃縮された汚染があると見るべき。
  • 島田市の試験焼却、不検出だったと発表されたが、計算し直したら、バグフィルターで捕捉したのは60~80%で、残りは空中に出てしまった。フィルターのメーカーも「バグフィルターで放射性物質が取れる保証はない」と明言している。

…等々。「環境省の広域処理の思惑は、もう逃げるところがない状態に追い詰められた。もはや崩壊過程に入っている。環境省は今まで経験したことのない、1兆円クラスの予算に舞い上がってしまった。今日限り、お役所の言うことは信用すべきでない。これからはインターネット等のメディアを使って自分で情報を集め、自分で判断する事が必要」と青木氏は結んだ。

2012年4月21日 (土)

九電本店前ひろば1周年祝賀会〜TwitNoNukes九州による抗議行動

4月20日の「九電本店前ひろば」の1周年記念祝賀会、及びその後のTwitNoNukes九州による原発再稼働反対の抗議行動を中継しました。

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リラックスした雰囲気の中、祝賀会は開かれました。ひろばの代表である青柳さん、他何人かの人のインタビュー、スピーチを撮影しました。特に15分30秒ぐらいから、韓国在住の久保義晴さんからは、海外在住者から見た興味深い視点の話が聞けます。

そのあと6時からの抗議活動は、二十数人の人数ながら、非常に熱の入ったものになりました。対する九電は早々に入口のシャッターを閉め、完全黙殺の姿勢。しかしながら、時々窓から様子を覗いていた人もいるようで、やはり内心は無視できないというのが本心ではないでしょうか。


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こちらはUSTアーカイブの時間制限で入りきれなかった、参加者の一人もりっちさん(@moricchi55)による「TwitNoNukes中国」の告知の映像です。暗すぎてお顔がよくわかりません。ごめんなさい。

2012年4月20日 (金)

「さよなら原発! 福岡」の福岡県への申入れ

4月18日、福岡の脱原発市民グループ「さよなら原発! 福岡」の福岡県への原発再稼動阻止と廃炉要請の申入れ行動を、福岡県庁より中継しました。

Part1

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Part2

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昨年来の福岡での大規模な脱原発デモ・集会を主導してきた「さよなら原発!福岡」の福岡県への抗議活動ですが、今回は「いかにして知事本人、副知事、あるいはせめて課長クラスの県職員など、責任ある立場の人間をを交渉の場に引っ張りだすか」に焦点が当てられ、申し入れが行われました。それに対して明確な回答は得られなかったが、県民サイドの意図は、知事に伝えるとのことだった。

環境行政に関する全国説明会 in 福岡

4月11日に福岡で開かれた、環境省主催の「環境行政に関する全国説明会」を中継しました。


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環境省のトップ、南川秀樹事務次官が自ら市民に向かって環境行政について説明したが、注目の震災瓦礫の広域処理問題については、「被災地が気の毒、ご協力をお願いしたい」という従来の説明が繰り返されただけで、特に踏み込んだ説明は見られなかった。一方で地球温暖化問題については多くの時間が割かれ、CO2を減らすことの重要性が強調された。「だから今後も原発は必要」という発言こそなかったが、暗に「原発再稼働への地ならし」を意図している、と解釈できなくもない印象。

2012年3月31日 (土)

まっちゃさんの避難記録(ツイッターより)

これは福島から札幌に母子で避難したまっちゃさん(@cont_mama)が、避難するまでの過程を、ツイッターで2012年の3月30日〜31日にかけて連続ツイートしたものです。同じ避難民としてとても印象に残り、またこれから避難を考えている方の参考になると思いましたので、こちらでも紹介させて頂きます。

去年、私は3月の終わりくらいまで生きていくのに必死だったこともあって、「ここで生活するんだ、できるんだ」って思いこもうとしてた。でも、本当は内心、震災直後の大混乱の中、なりふり構わず仕事も放り出して遠くへ逃げた人たちが気になっていた。普段は冷静な友人が、そうしていたから。
posted at 22:42:47

でも、その友人が私に電話をして来て「そちらの放射線量はどう?」と聞いてきた時、「そんなに遠くにいるのに、関係ないでしょう!」と言ってしまった。後になって思えば、自分の家がある場所の事、心配していて当然なのに。だから私はわかるんだ。「外から危険危険と言われることが嫌だ」って気持ちが
posted at 22:44:49

海外に住む弟が「今すぐこっちに子どもたちをよこしなさい」って言ってきた時だって、(パスポートなかったから無理だったけど)「こっちだって必死に生活してるんだよ!避難とかそんなに簡単にできるはずないでしょう!」って言い返した。(ここで頑張ってる人だってたくさんいるんだ)と思いながら。
posted at 22:47:03

震災後、電気もネットも直ぐに戻ったのに、私はmixi以外を見ようとしなかった。怖くて、一度見てしまったら、もう自分がその場所にいられなくなるだろうって、わかっていたから。mixiでは友達が「大丈夫?よかった、無事で」と言ってくれた。誰も、放射能は危ないから、なんて言わなかった。
posted at 22:49:13

でも、母親として、あの場所で生きていくためにはきっと無防備ではいられないということは気付いていた。だから子どもたちだけは守っていた。2週間、ほとんど外出はしなかった。食材も、絶対に地元の物は買わなかった。でも、ずっとそうしてはいられなかった。
posted at 22:51:30

外に出さなければいいか、から、ちょっとだけなら、マスクさせればいいか、になり、お散歩くらいいいよね、って。それでも、マスクと帽子とナイロンの上着は必ず着せていたけれど。雨とか雪には極力濡れないように、って気をつけたりもした。
posted at 22:53:11

そんな状態で1日、1日と過ぎていく。不安が、どんどん募る。でも、生活しなくちゃいけない。確かあの時、主人が言ったんだ。「親戚の家にお前たちだけでも行っていたら?」って。でも、毎日毎日大きな揺れが襲うようなところに、主人だけ残して行くなんて、申し訳なくて出来なかった。
posted at 22:55:48

自分の中で、必死に生きてる自分と、このままいつまでこんな状態なのかと思うと、子どもたちが心配で夜も寝られなくなる自分が毎日闘っていた。そのうち、せめてテレビに流れる市内の放射線量の意味くらい理解したいとおもって、恐る恐るネットを見始めた。
posted at 22:58:08

最初に読んだのが、武田先生のブログだった。おおざっぱだったけど、大体の被曝量をこんな風に計算したらいい、っていうのが載っていて、計算してみた。どう考えても、そこにずっと住み続けられる数字じゃないって思った。テレビでは、バナナ食べても被曝するから大丈夫、とか言っていた。混乱した。
posted at 23:00:48

本当のことがわからないというのは、こんなにも不安なのか、とつくづく感じた。どこに助けを求めていいのかわからなかった。毎日、毎日、むさぼるようにネットにかじりついて情報を集めた。近所の詳しそうな人に聞いたりもした。友人の1人は「すごく危険だと思うから講演会に行ってくる」と言っていた
posted at 23:02:48

講演会から戻ってきた、いわゆる「危険厨」だった友人は、なぜかマスクを外してうちの玄関前に立っていた。前日の心配そうな表情はいずこへ、笑顔だった。「あのね、このくらいの放射線は何の心配もないんだって。子どもたちも外で遊べるし、布団も干していいし、問題ないんだって。よかったね!」と。
posted at 23:05:06

ご丁寧に、友人は講演会の内容を細かく書き留めて、コピーをしてくれていた。「100ミリまで、何の心配もないって、山下先生がおっしゃっていたよ。ご自分も被爆2世なんですって。こんなに健康です、って。わざわざこんなに遠くまで来てくれて、有り難いわよね。安心したわ。みんなにも配ってくる」
posted at 23:06:49

友人は満面の笑みで隣近所へ講演会の内容のコピーを配りに行った。私は部屋に戻って読んだ。大丈夫、だいじょうぶ、心配ない、問題ない、子どもも大丈夫、外で遊びましょう、マスクも要りません・・・本当なら、嬉しいはずの内容が、妙に白けて見えた。あんなに心配してた友人の変わり様も怖かった。
posted at 23:09:11

私があの時「あーよかった。やっぱり安全なのね」って思えなかったのは、母親としての勘だったんだろうか。いまだにわからないけれど、あの友人の笑顔を見た瞬間、「何かとんでもないことが起きてるに違いない」って感じたんだ。 それでも、まだ、家や仕事を捨てて遠くへ逃げるとは思えなかった。
posted at 23:13:07

そこで、出来る限り危険にさらされずに生きていくにはどうしたらいいのだろうか。私は必死で考えた。私みたいな主婦が、原子力とか、放射能とか、全然知識もない一般人が、いくら考えたって出てくるアイディアなんてたかが知れてるのに、それでも、考えずにはいられなかった。
posted at 23:15:10

ちょうどそのころ、ずっとやっていたmixiに放射能のことを書くと誰もコメントをしてこない事に気がついた。みんな、当たり前のように、日常生活を送っていた。ディズニーランド、早く行きたい、なんて、毎日書いてる人もいた。読むのが辛くなって、mixiからは距離を置き、ツイッターを始めた。
posted at 23:20:08

震災直後から休校になっていた学校だったが、1週間ほど遅れて卒業式をやるから来賓として参式してくれと連絡をもらった。あちこちに避難してる子どもたちが、戻ってこようとするだろう。でも、節目の式をやってあげたいという気持ちも痛いほどわかった。卒業生の保護者の方々の希望が多かった。
posted at 23:24:25

体育館は使えなかった。校舎の中のランチルームで、規模を縮小して行った卒業式。ほとんどの卒業生が出席していた。中には中学校の制服を取りに行けず私服の子もいた。私は学校に着くまでマスクを2重にしていたが、久しぶりに友人と会って喜ぶ子どもたちの顔を見て、マスクをそっと外して出席した。
posted at 23:28:29

卒業式をやってしまった・・・というどうにもならない罪悪感と、やってよかったんだという気持ちが入り混じって、苦しかった。その頃、ネットでは食べ物の汚染の話から土壌汚染の話へと進んで来ていたから。あの広い面積の砂や土だらけの校庭に、何も降り積もってないはずがない。当たり前のことだった
posted at 23:31:01

このままだと、何事もなかったかのように、4月から新学年が始まるだろう。いいんだろうか。いや、いいわけがない。もう、頭がぐちゃぐちゃだった。ひとたび学校が始まれば、うちの子だけを休ませておくこともできない。入学式だってやるだろう。その時、どうしたらいいんだろう。何ができるのか。
posted at 23:33:48

無駄だろうとは思いつつ、ネットで調べた土壌汚染についての資料をどっさり持って、校長室へ。その時、校長先生と教頭先生はあらゆるつてを使って放射線測定機を借りてきていた。校庭や校舎内をすでに測っていた。でも、私はその数値を教えてもらえなかった。「大した数値ではなかった」と言われた。
posted at 23:37:01

校長先生は私が持参した資料を「貴重な御意見、ありがとうございます。」と言って机の上に置き、開くことはなかった。「校庭の土を入れ替えてください」と私は意を決して言った。でも、返って来たのは苦笑いとこんな言葉だった。「みてください、この校庭の土をどうやってはがすんですか」
posted at 23:39:04

無力だった。いつも、わがもの顔で役員として学校に出入りしていたけど、こんな時に何もできない自分が悔しかった。同じ役員も、強くは言わないけど「そんなに心配したってしかたがない」と言いたげなのはわかっていた。私は、だんだんと、言葉を失って行ってしまった。
posted at 23:42:31

そして、新学年が始まった。入学式も、おなじようにランチルームでおこなった。真っ青な空が大きな窓から見えて、ポカポカ暖かくて、新1年生は椅子に座ると足が床につかなくて、みんな、足をプラプラ揺らしている、そんな何度も見てきた入学式の風景だった。
posted at 23:46:42

「登下校はマスクをしましょう」・・こんなルールのもとで、学校が始まった。でも、マスクをしてる人数はどんどん減って行った。春の遠足が近づいてきた。また黙っていられなくなった私は、こんな状況の中、長距離を歩かせる遠足なんて中止にしてくれと学校に直訴した。「遠くまで歩く」遠足だったから
posted at 23:51:08

遠足前日、「校長が全学年の全ルートを歩いて放射線量を測ってきた。が、問題のある場所はなかった」と言われた。その時も数値は教えてもらえず、「年間の基準値より全然低いですから」という意味不明な説明だった。ところが、遠足当日「強風のため中止にします」と連絡が。雨も降ってないのに。
posted at 23:55:49

遠足のルートが安全だなんて言っていたけど、実はそうでもなかったんだろうな、って何となく感じた。中止にしてほしいという意見も、きっと届いていたんだろう。とりあえず、束の間の安心だった。が、ちょうどその頃、息子が鼻血を出し始めた。
posted at 23:59:12

今までの鼻血とは明らかに出方が違う。鼻をいじっていたわけでも、風邪ひいて調子が悪かったわけでも、のぼせるほど暑かったわけでもない。ただ、普通に食事をしてる最中に、ポタ、と鼻血が出始めるんだ。私は血の気が引いた。でも息子はまだ、「げ!鼻血!」って笑っていた。
posted at 00:01:35

一難去ってまた一難。5月には運動会が立ちはだかっていた。やるか、やらないか、というレベルの話し合いは予定されていなかった。「どうやって行うか」だった。運営会議の中で、私だけが「なぜこんな時に、今、運動会をしなくてはいけないのか。秋に延期することはできないのか」と言った。
posted at 00:05:24

思い切り、孤立していた。あの会議の、あの時の空気は忘れることができない。5月の運動会は中止に、という私の意見は、先生方からよりも他の保護者からの反発を受けた。最後の学年なのに、何でもかんでもダメダメはかわいそう、大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫なのでは?と。
posted at 00:07:50

ちょうどその頃、子どもたちの同級生のママと連絡を取り始めていた。彼女も、被曝の影響を心配して、出来ればどこかに避難したいと言っていた。彼女と話をするようになって、私の中にもどこか遠くに行くと言う選択肢があるんだ、という気持ちがうまれ始めていた。それでも、時間は流れて行った。
posted at 00:11:43

その頃の私は、逃げたい気持ちと、留まってどうにか頑張りたい気持ちとでゴチャゴチャになっていた。仕事も、子どもたちと関わる仕事だったこともあり、自分がそこで仕事をすることが、余計に子どもたちを危険な目にあわせているのでは、という気持ちにさいなまれて、仕事が辛かった。
posted at 00:18:47

運動会は、予定通り実施することになったが、ジタバタする私がうるさかったからか、「全競技の合間に校庭中に散水する」「外でお弁当を食べなくてもいいように、午前中で終了」「希望者は長そで長ズボンマスク着用でもOK」という条件がついていた。
posted at 00:20:58

少し前から避難について考えていたママ友が、ある日「決めました。京都へ行きます。先に行って待ってます」と連絡をくれた。頭を何かでぶんなぐられたような衝撃だった。逃げたいとか、遠くへ行きたいとか、口では色々言いながら、その実、心の中では「そんなの、無理だよ。大変すぎる」って思っていた
posted at 00:24:31

でも、ママ友が本当に後ろを振り向くこともせず、ものすごい決断力で子どもさん2人を連れて避難して行く姿を見て、自分だってできる、もっと真剣に考えなくちゃ、という気持ちが一層強くなった。でも、誰に相談することも出来なくて、1人で一生懸命情報を集めた。住宅や土地柄、学校。寝られなかった
posted at 00:27:13

避難したい、という気持ちを、主人にも、両親にも言えなかった。どう思われるか。主人も行くというだろうか。年老いた両親は、情報不足で私をバカだと笑うだろうか、そんなことを思うと、口に出せなかった。そんな時、生まれてから1度も鼻血など出したことがなかった娘が、学校で大量の鼻血を出した。
posted at 00:30:25

まだそれほど暑くもなかったし、なんといっても、一度も鼻血なんか出たことがない娘。授業中に突然、机の上のノートが真っ赤になるくらい、鼻血が出た。白いセーラー服も真っ赤になり、30分近く止まらなかったそうなのに、担任も保健の先生も、一言の連絡もなく、制服は洗濯されていた。
posted at 00:34:58

娘はもう中学生。テレビや、ネットで流れる情報も、ある程度わかっていた。自らマスクを2重にして、一度も外したことがなかった。子どもなりに、心配して、自衛していたんだ。大量の鼻血を出した自分が、もしかしたら何か影響を受けているのではと不安になって私に聞いてきた「ここにいて大丈夫?」
posted at 00:37:23

大丈夫だと言っていいのか、危険だと言うべきなのか、言葉にならなかった。娘の鼻血はその1回だけだったが、息子は結局4回も鼻血を出した。2回目までは笑っていた。でも3回目は泣いていた。「死にたくないよー」って言っていた。私は「死なないよ、大丈夫、大丈夫だから」と抱きしめるしかなかった
posted at 00:40:05

隣に住んでいる実の両親は、それまでいつも私が仕事の時は晩御飯を子どもたちに食べさせてくれていた。でも、いつからか、私はなんとなく母が作ってくれていた食事が信じられなくなってしまっていた。母は、特に放射能について語らなかった。知らないのだろうと決めつけて、食事を断ることもあった。
posted at 00:42:17

ある日、母が言った。「最近、ちょっと遠くの野菜も手に入るよね、よかった。子どもたちには出来るだけここのものは食べさせたくないもんね。こんな生活、本当に不自由だよね」と。それを聞いて、私は、泣き崩れてしまったのだ。母は、私なんかよりもっともっと、心配して調べてくれていた。ごめん。
posted at 00:44:28

仕事の時間が不規則な主人とは、なかなかゆっくり話をする機会がなかった。なんとなく、避けているのかな、とも思えてきていた。でも、何をどう言ったらいいのか、もし、避難したいと言って反対されたり否定されたりバカにされたら、きっと立ち直れないだろうと思うと、口に出せなかったんだ。
posted at 00:47:17

でも、日々、避難したい、しなくては、という気持ちは募っていった。学校は、どんどん無防備になっていた。娘は部活で外を走らされ、線量の高い場所で練習試合を組まされた。息子は長そで長ズボンマスクで運動会の練習をしていた。
posted at 00:50:57

ある日、ツイッターで朝のワイドショーで自主避難を特集すると聞いた。その頃、やっと各地へ避難して行った人たちが取り上げられ始めていて、その時はちょうど長野県の松本市へ避難した親子さんのことをやっていた。私は何食わぬ顔で、主人が見ていたテレビをその番組にかえた。主人は無言で見始めた。
posted at 00:52:48

主人は黙ってテレビを見ていた。テレビの取材に答えていた方は、小さなお子さんを外で遊ばせることができる、マスクも必要ない」と言っていた。番組が終わった時、主人が言った。「住むところがどうにかなるなら、お前たちだけは早く避難した方がいいんじゃないか?それとも、もう遅いのか?」
posted at 00:57:55

堰を切ったように、受け入れてくれる場所があることや、他にも色々と支援体制が整いつつあることを説明した。主人の決心は早かった。「じゃ、来週長野へ下見に行くぞ」。 ただ、主人は「仕事は今スグにやめられない。この年齢で同じ給料がもらえる仕事があるとも思えない。とりあえず、お前たちだけ」
posted at 01:01:09

そうだろうとは思っていたけど、避難するなら家族がバラバラになるのだという現実が辛くて、せっかく主人が避難しなさいと言ってくれたにも関わらず、私の決心は逆に揺れてしまった。私が子どもたち2人を連れて見知らぬ場所で生活なんて出来るだろうか。ここに残る主人や両親に申し訳ない気持ちも。
posted at 01:04:01

震災後いつ余震が来るかわからず怖かったので、私と子どもたち二人は同じ部屋で寝ていた。寝る前に、「もしここから引っ越しをするとしたら、転校になっちゃうけど、ついてきてくれるかな?あなたたちの体がね、心配なんだよ」とよく話していた。2人とも、「行くよ」と言ってくれていたのが救いだった
posted at 01:06:42

隣の両親に、避難するかもしれないと伝えた。母は「やっと決めたんだね。よかった。こっちからあれこれ言うと、きっと困るだろうと思って言えなかったけど安心した。パパ(主人)のことは任せなさい。安全な物使って食事作るから」と言ってくれた。私は、こんな年になってもまだ母に迷惑をかけるのかと
posted at 01:09:44

本当に本当に、申し訳なくて涙が止まらなかった。なぜこんなことになったのか、大事な家族と離れ離れにならなくちゃいけない、私が何かしただろうか?悪いことをしただろうか?私が何も気にせず普通に暮らしていられる人だったら、子どもたちも転校なんかしなくて済んだのだろうか、と。
posted at 01:12:29

主人も、1人暮らしは経験あるし、大丈夫、お義母さんにご飯は頼ってしまうけど、それ以外はできるし、お前たちが安全なところにいてくれれば、もしまた何か事故があっても、お義父さんとお義母さん連れて逃げる場所があるから助かるよ」と言ってくれた。その数日後、長野県上田市へ下見に行った。
posted at 01:17:14

本当は松本市にしようと思っていたが、テレビで流れた影響か、住宅に空きがなく、キャンセル待ちだと言われた。出来るだけ距離が遠い場所がいいとは思っていたけれど、海を越えることがとてつもない壁となっていたため、まずは陸続きの長野県に絞った。
posted at 01:20:22

上田市はこじんまりして素敵な場所だったが、空いている住宅が狭すぎて、うちのように大きな子どもを連れて行くとなるとちょっと厳しいことがわかった。6時間もかけて行ったけど、結局あきらめるしかなかった。がっかりしてる私に主人が言った「どうせなら、思い切って遠くへ行った方がいいよ」
posted at 01:22:22

「避難する理由を考えたら、ある程度の安全が確保できる場所じゃないと、後で後悔することになる。北海道か、沖縄か、どっちかがいいと思う」 私も同意だった。子どもたちに意見を聞いてみた。2人とも、口を揃えて「北海道がいい。暑いより寒い方がいいから」と言った。行き先が決まった。
posted at 01:26:00

行き先が決まってからは、すべてがあっという間だった。1日でも早く子どもたちを遠くへ連れて行きたい、そう思う一方で、もう小6と中2になる子どもたちの気持ちを無視することはできなかった。2人とも、思うところはたくさんあっただろうが、一度も行きたくないとは言わなかった。
posted at 01:29:04

娘も息子も、1学期だけはここで、と言った。私は頭の中で(3月から4カ月も経ってしまう)と思った。もっと早く、出来るだけ早く、そう思ったけれど、大事なものをたくさんたくさん手放して行く覚悟を決めてくれている子どもたちの、心も大事にしてあげたかった。出発日を1学期終業式翌日に決めた。
posted at 01:32:35

北海道の受け入れ態勢は素晴らしかった。雇用促進住宅は、電話したらすぐに申込書をFAXしてくれて、私も直ぐに記入して返信した。同時に、入居前の準備期間として3泊のホテル予約も無料でしていただけた。金持ちでもない我が家は、潤沢な避難資金があるわけではない。本当に助かった。
posted at 01:35:57

家電は、避難先に入居してから3週間ほどで支援物資としていただけるとわかったが、真夏で冷蔵庫がないままの3週間は厳しい。洗濯だって、大きな子どもたちがいれば毎日するだろう。やはり、出費があれこれと出てくる。そんな時、ツイッターでは見ず知らずの方が洗濯機を譲って下さると。
posted at 01:40:26

そんなありがたい御縁もあるのだと、心から感謝して譲っていただいた。その方はその後、やはり御縁があったのか北海道へ移住され、まだお会いするチャンスはないのだけど、連絡を取り合っている。そして、ツイッターには、おなじように北海道へ避難する人、した人が大勢いて、ほんとうに心強かった。
posted at 01:45:01

小学校の運動会の前日、準備でバタバタしていた時、何気なく校長先生と話をした。「やっぱり、ここまできても、秋に延期できなかったのか、って思ってしまいます」と私が言ったら、「基準値、今は20ミリだけど見直されて厳しくなったら、運動会は出来ないかもしれない。今やらないと」と校長が言った
posted at 01:48:04

ちょうどその頃、娘はもう気持ちが切り替わっており、北海道の転校先の学校のHPを見たりしてけっこう楽しそうにしていた。でも、息子は、嫌だとか行きたくないとか一言も言わない代わりに、避難先の事は何一つ聞いて来なかった。転校先の学校名さえ、聞こうとしなかった。私は少し心配していた。
posted at 01:50:04

もしかしたら、息子は行きたくないのではないか、男の子だから、父親と離れるのが辛いのではないか、おじいちゃん、おばあちゃんが大好きだったから、寂しいのではないか、色々考えると、避難すること自体、本当に子どもたちのためになるのだろうか、とまで考え始めてしまって、苦しかった。
posted at 01:52:22

そんな息子を見ていたら、運動会に出るなとは言えなくなってしまった。別に運動が好きなわけじゃない息子だが、「出たい?」と聞いたら「あたりまえでしょ」って言われてしまった。でも、「ちゃんと長そで長ズボン、マスクもして出るから」と自分で言った。そんな姿の運動会って・・・と複雑だった。
posted at 01:55:23

子供たちをつらいめにあわせているんだろうか、と悩んでいた時に、校長先生の「今、運動会やらなくちゃ出来なくなっちゃうよ」という言葉を聞き、(あぁ、ここに子どもは預けられない。避難は正解なんだ)と確信した。私がつらそうだと、子どもたちももっとつらくなる。絶対に笑っていようと決めた。
posted at 01:57:57

息子のことが気になっていたが、特に嫌がることもなく荷造りしたり、先生へ転校の挨拶に行ったりしていたので、時間が解決してくれるかな、と思うようにした。とにかく、親が不安そうだったり、嘆き悲しんでいたら絶対に子どもにもそれがうつってしまうと思い、明るく明るくと呪文のように唱えていた。
posted at 02:03:33

ツイッターで知り合った、同じく札幌へ避難する予定の方が、息子と同じ年の息子さんがいる、とわかった。息子にそれを話したら、ちょっと表情が変わった。はじめて、「へー、どんな子かな?ゲームとか、するかな?いつ行くんだろう」って聞いてきた。やっぱり不安なんだな、と思うと、胸が痛んだ。
posted at 02:06:43

娘は親の私が思うよりずっと強かった。すごく仲のいい友達が複数いて、みんなで同じ高校へ行こうと約束していた。でもきっと自分は行かれない。どう思っているんだろうかと心配していたが、「元気でいればまたいつでも会えるからさ」と満面の笑みでこたえた。私はこの言葉にどれだけ救われただろうか。
posted at 02:10:17

1学期の終業式。札幌への出発を翌日に控え、最後の挨拶を小学校と中学校へしに行った。小学校の担任の先生は、涙を流して「さびしいです。ごめんなさい、守れなくて」と言ってくださった。でも息子は平然としていた。先生は、「最近の写真と皆からのメッセージです」とアルバムにしてくださった。
posted at 02:13:50

中学校では、娘は部活に出てから帰ると言っていたので遅い迎えになった。職員玄関では、担任の先生、教頭、校長、学年の先生、部活の顧問がずらっと出てきてくださり、「またいつでも帰ってきてください」と言ってくださった。娘も、平然としていた。先生方は泣いていた。友達も泣いていた。
posted at 02:16:09

2011年7月21日、私たちは14年間暮らした家を出た。そんな事、まったく望んでいなかった。ささやかだけど家族みんなで、とても幸せな生活を送っていたんだ。家を出る時に、主人が部屋を振り返って言った言葉は、今も胸に突き刺さっている。「あー今度帰ってくるときは、ここに1人で戻るのか」
posted at 02:21:15

両親も、泣かなかった。私も、泣かなかった。子どもたちも、泣かなかった。みんな、こうするしかないのだと、わかっていたから。心の中は張り裂けそうに辛くて、出来ればどこにもいかず皆で一緒にいたかったけど、それはできなかった。後戻りはできなかった。後で後悔するのは嫌だった。
posted at 02:24:24

仙台港からフェリーに乗った。子どもたちは、笑顔だった。主人も「ほっとした」と言っていた。私も、家を出た時の何とも言えない気持ちがおさまり、フェリーに乗る頃には先のことを考えることができていた。仙台港は、テレビで見たあの光景が本当に広がっていた。これは現実なんだとあらためて思った。
posted at 02:29:13

7月22日、苫小牧へ到着。主人は旅行で来たことがあるものの、私も、子どもたちも初めての北海道。なんだか、外国へ渡るかのような寂しさがあったけど、いざ着いてみたら、あたりまえだけど、普通に、そこは、日本だった(苦笑) 子どもたちはすごくテンションが高く、楽しげだった。
posted at 02:37:24

とりあえず、避難までの諸々はここまで。ただ一つだけ、いまだに泣けてしまうことがある。一度も転校を嫌だと言わなかった息子。最後の日も泣かなかった。。。と思っていた。が、違った。先生が下さったアルバムの中には、お別れ会で皆に囲まれて号泣する息子が写っていた。どれだけの寂しさだったか。
posted at 02:40:08

男のプライドがあるんだろうな、きっと。だから、写真見たよ、なんて、息子には言って無い。でも、きっとつらかったんだろう。卒業まで半年だったのに、本当にごめん。何度も心の中でそう謝った。そして、それ以降そのアルバムは一度も見ることが出来ていない。 いつか、また、見られる日がくるのかな
posted at 02:42:32

長々とお付き合いいただいた皆様(って、勝手に読んでもらえてると思ってる私・・・)、遅くまですみませんでした。夜中で、寝落ちしそうな状態だったため、タイプミスとか多くてすみません。明日の札幌は副将軍再来らしいです。皆さま、どうかお体大切に。おやすみなさい。たくさんのRTありがとう。
posted at 02:47:51

そうだ、しつこく最後にもうひとツイ。避難して8カ月。娘は多くのお友達と素敵な先生方に支えられ、本当に楽しく学校生活を送っています。来月から受験生!息子もいい友達がたくさんできて、来月から中学生です。私もパートですが仕事が決まり、ただいま研修中。主人は月に1回来道してます。
posted at 03:12:05

2012年3月29日 (木)

エネルギーをお笑いで伝えるワールドカフェ

3月28日、福岡 薬院のNPO環境未来センター希望で開かれた、「エネルギーをお笑いで伝えるワールドカフェ」を中継しました。

長年原発の危険性を訴えて全国を回っている冨田貴史さんを迎えて福岡で開かれたワールドカフェ。ワールドカフェは、人々がカフェにある空間のようなオープンで創造性に富んだ会話が出来る場とプロセスを用意することを目指しています。

過去冨田さんを迎えてのワールドカフェは福岡で何度も開かれて来ましたが、今回は前半は富田さんによる脱原発情報の共有、後半はエネルギー問題を議論しあって「博多にわか」で報告し合います。「博多にわか」とは、世相を反映した伝統芸能で、博多弁による駄洒落で締めくくり、政治や社会をユーモアをもって風刺したもの。これを通して原発問題を取り上げることにより、深刻で暗い話になってしまいがちな問題をユーモアをもって語り、今までは敬遠されてきた人たちにも原発の問題を伝えようという、ユニークな催しとなりました。

余談として、先日の北九州での細野環境大臣の街宣活動に立会い、細野大臣と直接対話した脱原発市民グループ "Fight for Your Life" の梶原貴之さんが、最後(1時間56分48秒頃から)に「細野大臣に『頑張ってください』と握手していた北九州市民は、バッジをつけた議員関係者が一般市民のふりをした完全な『ヤラセ』『サクラ』で、その一部始終を見た。完全な茶番、嘘だった」とはっきり証言しています。

2012年3月28日 (水)

脱原発デモ@TwitNoNukes九州(ツイッターデモ) 第3弾

3月35午後2時より、東京でTwitNoNukesさんの呼びかけで行われているツイッターデモに賛同し、九州で立ち上がった個人有志による脱原発デモの第3弾を中継しました。


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今回は過去2回の福岡天神の警固公園から天神の繁華街~大名方面を回るこコースではなく、同じ天神の長浜公園から親富孝通りを抜けるコースに変更されました。それに伴い、閑静な地域である「親富孝通り」周辺を考慮し、そこを抜けるまではシュプレヒコールと鳴り物の使用を自粛する措置が取られました。参加人数は前回と同じか、やや減った感じ。リーダーのごんぞー氏(@wildthingishere)は、デモ終了後に「人数を増やすことも重要だが、今は地道に毎月デモを継続することに力を入れたい。毎月デモをやるというのは大変で、人手も不足しているが、なんとか継続したいと思っている」と今後の抱負を語りました。

2012年3月27日 (火)

細野豪志環境大臣 北九州小倉駅前にてがれき広域処理に理解を求める街宣活動

3月25日、がれきの広域処理に理解を求めるキャンペーンのために福岡を訪れた細野豪志環境大臣の、北九州市の小倉駅前で街頭演説、およびチラシ配りなどの活動を中継しました。


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予定時間を少し回った午前11時40分頃、細野大臣が姿を表し、街頭演説が始まる。被災地の窮状を訴え、がれきの広域処理に対する北九州市民の理解を求めました。その後、大臣自らチラシを手にし、道行く人々に手渡すパフォーマンス。受け取る北九州市民の反応は様々で、「頑張ってください」とにこやかに握手を求める人もいれば、受け取りを拒否する人も。その間も、反対派の市民からがれき拡散の撤回を求める悲痛な叫びが…。終盤は反対派の市民数名と、細野大臣の直接対話も行われたが、話は平行線。最後は時間切れで、記者会見へ。その場で細野大臣は「がれきの問題を大変心配していらっしゃる方がいることもよくわかった。そうした方々には、より一層の丁寧な説明をしていくようにしていきたい」と述べ、同時に「それでもがれきの広域処理はどうしても必要」と重ねて強調しました。

結局細野大臣が言っていた「説明」は、「がれきは安全です」と「被災地(石巻)の住民がかわいそう」という二点のみ。それを言い回しを変えて繰り返していただけで、「なぜがれきが安全なのか」について、今まで以上に踏み込んだ説明がされることはありませんでした。それに対して反対派の住民からは、様々な角度から「反対する理由」が述べられましたが、細野大臣は結局「じゃあ石巻の人たちはどうしたらいいんですか?」と、感情論に訴えるばかりで、これではがれきの汚染に不安を感じる市民を説得することは難しい…と言わざるを得ないでしょう。

なお、細野大臣が最後の記者会見で、「北九州市で仮設の焼却施設を建設中で、それで年間1000万トン以上のがれきを処理できるようになる」と述べている件をIWJで調べたところ、結局これは事実無根であることがわかりました。環境大臣というポストにありながら、細野大臣は現状を全く把握しておらず、いい加減な「勘違い発言」を記者会見という公の場でしてしまった…というお粗末な結果となりました。

細野大臣は下記の記事の内容を勘違いしていたものと思われます。

石巻のがれき処理は1923億円、1250人の雇用を創出(日経BP社 ケンプラッツ)

…なんともお粗末、としか言いようがありません。この人は一体がれき問題を扱う担当大臣として適任といえるのでしょうか?

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